変わることの難しさ

変わるのはとても難しい。

肉体は各細胞もとい性格が変わること簡単に許さない。

 

それもそうだ。現状の生命維持が最優先なのだから、そこから大きくずれて体を壊しでもしたら大変だ。

だからといって体もずっと変わらないというわけではない。
少しづつ状況に合わせて変容するようになっている。
これも生きる上で適応が必要だからである。

近隣諸国が戦争を始めたのに、とくに軍備も増強せず今まで通りのほほんと内政に勤しむ国はないはずだ。これも体と同じ。

変わるという事はそれほど大変で、戻ろうとする体と自らの精神力の戦いだ。
これがどんなゲームよりも難しい。

だからもっと自分を追い込む必要がある。
それに対し「無理してはいけない」というのはあまりにお門違いな言葉だ。

無理をしなければ変わることはない。
無理をしないということは、現状の体で対処可能なことということ。
つまり変わらずともこなせる事なのだ。

変わりたければ無理をしろ。
甘い言葉に惑わされるな。

別人?頭がおかしくなった?

今の自分は本来の自分ではない。
そうやって言い訳を続けても、何も生まれない。

もうすでに人生の本番は始まっている。
今までの自分は、そんなことも分からなかったらしい。

このブログを始めて何週間か経つが、今まで"自分"がやってきたことが馬鹿らしく感じる。今の自分は、このブログを始めた時とは別人のようだ。

今日、決定的なことが起きた。今日は過酷な運動をやっていたのだが、その途中に自分の中の何かが変わった。別に二重人格というわけではない。自分から情けない部分を切りおとしてゴミ箱に突っ込んだ。そんな感じだ。

 

始めは頭がおかしくなったと思った。
だが違う。ちゃんと仕事も今日やる事も把握しているし、何かを忘れたという事もない。なら変わったのは自分の性格なのか、考え方なのか。

自分はどちらも変わったのだと思う。
性格は変えようとして変えれるものではない。大きな変化で変わってくる。いままでの悪あがきと今日の過酷な運動で、性格が変わったような気がする。

そして考え方も。
保守的な思考から積極的な思考に変わった。

だから今までの自分を振り返って、まるで自分じゃないかのように感じた。
俺は医学の知識はないが、こういう事象に医者は病名を付ける。冗談じゃない。俺は俺だ。

 

今の自分をまるで別人格のように扱うのは、きっと体の防衛反応なのだろう。
体には恒常性(ホメオスタシス)というものがある。元の状態を維持しようとする体の働きだ。これも冗談じゃない。

 

今聞こえてくる、心をざわつかせる不安の種種は、きっとその情けない自分を戻そうとする体の反応なのだろう。

 

もしこれを読んでいる人の中で精神科医がいるなら、今の俺が正常か異常か答えてほしい。言っておくが、俺は正常だと思っている。

不幸の連鎖への対抗

アクシデントは突然やってくる。

運が悪ければそれが連鎖して別の問題が起きたり、全く関係のない別の不幸が狙ったかのようにふりかかってくることがある。

 

そんな時「なんで自分がこんな目に・・・」と考える。

その思考にはまった途端、その不運自体やそれを引き起こした人物へ感情の矛先が向くだろう。

 

しかし感情的になっては何の解決にもならない。
感情に支配されると、より自分を不幸へ導いてしまいかねない。

 

そんな時は一度、冷静になって客観的に自分を見つめてほしい。
遠くから今の自分をみるようなイメージだ。

なんでこいつは悲観に暮れているのだろう?
何に不満なのだろう?
何故怒りに支配されているのだろう?

すると、自分が何に突き動かされて感情を発露させているか分かり、
元凶を再び見据えることができるだろう。

イメージできない方のために具体的な例を示すと、

なんであの上司はあんなに怒り散らしてるんだろう、
ああー○○が○○だからか。まぁそりゃ怒るよね。
でも、そんなに怒る暇あるなら、○○を○○すればいいのに。

↑この上司を自分にあてはめて見てみる、ということだ。

感情的になっている時、自分を意識的に制御するのはとても難しいが、このやり方なら第三者の目になって自分を俯瞰することができる。


娯楽にふけってしまう理由は?

相変わらず仕事はつまらない。

でも辞めるわけにもいかず、食っていくために仕事をしている。


半ば諦めたように仕事しながら、鬱憤を晴らすかの如く娯楽にふけるアフター。今の自分がそんな負のスパイラルに囚われていると気づいたのは、つい最近のことだ。

 

なぜ自分は酒を飲むのか、だらだらyoutubeをみているのか。

疲れたからか?いいや違う。疲弊したのは間違いないが、それなら寝ればいいだけの話である。

行きついた答えは、”心が満たされなかった”から、である。

本当にやりたいことをやれば、心は満たされるはずなのだ。

「いや、自分がやりたくてやってんだろうが」


瞬時にそう反論する自分がいた。
確かにその通り、自分が求めているからこそやっているのだ。

 

しかしだ、こういう見方もできないだろうか?
本当はやりたいことをする体力もないから、楽に心を満たす手段として仕方なく選択しているのではないか、と。

 

もし同じ境遇の人がいるなら、少し考えてみてほしい。
毎日自分がやっていることは、本当にやりたいことなのかを。
それが難しい人は、自分が明日突然病気で寝たきりになり、あと数日の命となったと仮定して自分の心情を想像してみると良い。

これは個人の考えだが、本当にやりたいことであれば働かなくてもいい。
やりたいことが職種として存在するなら、そこを目指しても良い。
もちろん無傷とはいかないだろうが、その傷は自分の糧となるはずだ。

種火を手に入れた

私の夢を実現するための第一歩は日常に隠れている。

今日はそれを手に入れることが出来た。

 

この種火を大きくしていくにはまだまだ時間がかかりそう。

やはり閃きにはウォーキングが有効なのかもしれない。

空腹はクスリ?

ランチタイムは社会人に与えられたオアシスだ。

今日は何を食べよう、昨日はアレを食べたから……とランチタイム前から頭を悩ますのだって楽しいだろう。

 

だが忙しくて食べれない時もあり、カロリーメイトやゼリー飲料を1分足らずで平らげることもあるだろう。そんな社会人諸氏は多いのではないだろうか?

かくいう私もそんなありふれたリーマンの一人だった。

 

あるとき、忙しすぎて水とブラックコーヒーだけで乗り切ったことがあったのだが、その日はすこぶる調子が良かったのだ。

 

いつもが長く緩やかな坂を自転車でゆったり上るのに対し、

その日は自転車で坂道を下るがごとく爽快であった。

 

もちろんお腹はすいていた。

あの胃を掴まれたかのような感覚に、5分~10分はイライラしていたと思う。だが同じほど仕事にイライラしながら着手していたのもあってか、空腹感はいつの間にかなくなっていた。

 

そんな奇妙な現象を体験し、似た経験をした人がいないか調べることにした。

するとどうだろう、

 

「空腹」こそ最強のクスリ

 

そんなタイトルの本が出てきた。

最初は怪しい宗教か民間療法かビジネスなのかと思ったが、内容を見ていくうちに、ただ食事の回数を減らす16時間断食なるものをやるだけだということが分かった。

 

だいたいこの手の話題には、「空腹を和らげるサプリ」や「空腹を抑えるステッカー」のような怪しいものがバックにある。

 

だがこれは、ただ食べないだけ。

何か宗教に入って修行するとかではなく、自分の生活から食事時間を取り除くだけだった。

 

読んで分かったのは、食べ物の消化は意外と体力を使うという事。更に空腹状態が16時間続くと、長寿遺伝子が活性化するのだとか何とか。

 

後者については良くわからないが、消化に体力を使うというのは何となくわかる。食後はだいたい眠くなるし、食べる前よりも明らかにパフーマンスが下がる。

 

それになぜ今まで気づかなかったのか、ゲーム的に言えば回復どころかデバフを食らった状態じゃないか!と思った。

 

だがそれが生物のすごい所で、生命維持のために空腹感という苦痛を与え、摂食に快感を与える。そう考えると、もともと人間は食後にこんなデスクワークをするように設計されていないのかもしれない。

 

だが空腹は間違いなく高いパフォーマンスを与えてくれる。

それはサバンナの猛獣たちを見れば明らかだろう。

 

彼らは我々人間のように、金さえ出せばいつでも食にありつけるわけではない。獲物の草食動物は凄まじい速度で逃げるし、それを仕留めたとしても、ライバルがいれば奪い合いの戦闘がおこる。

群れの仲間出ない限りは、人間のようにはんぶんこなんてしないだろう。

 

さて、そんな過酷な奪い合いをする彼らの胃の中は空っぽだ。
これを自分の体験と重ねると、すんなりと納得がいった。

 

これを読んでいる人がいるかは分からないが、食後の眠気が鬱陶しく感じている方は試してはいかがだろうか?

やっぱりだめだった

自分にはやはり継続する力が限りなく無に近いようだ。

1日、仕事が忙しく更新するのも忘れていたのだが、その1日だけでこのブログのことを

気に掛けなくなっていた。

 

死が迫っているというのに暢気なものである。

馬鹿は死んでも治らないというのはこういうことだ。

このままでは結局何も成すこともないままくたばるだけだ。

 

というわけで、今日からまた再起してみようと思う。

まるでX(旧Twitter)のようにつぶやく程度の更新をしてみよう。

 

ブログのタイトルどおり、これは最期の悪あがきだ。

悪あがきして何になると思うかもしれないが、悪あがきの過程に意味があるのだ。

 

悪あがきした結果、何かを手に入れるのであればそれでいい。

何も手に入らなくても、必死に足掻き生きたことは変わらない。

逆に諦めて何もしなければ本当に何もない、無だ。

 

思えば自分の人生は仕事を始めてから灰色だったと思う。

そんな灰色に極彩色の悪あがきを塗りたくるのだ。